忠導姓支流 狩俣筑登之親雲上玄次・狩俣にや玄次・玄典 勤書
資料について
作成年代:支流十代狩俣筑登之親雲上玄次(玄陳)の勤書は、康熙43(1704)年から乾隆8(1743)年まで、十一代狩俣にや玄次(玄往)の勤書は、乾隆3(1738)年から乾隆20(1755)年まで、十二代は狩俣にや二男で跡目の仲筋村杣山筆者玄典(玄為)で、その勤書は乾隆20(1755)年から乾隆38(1773)年までが確認され、その後は欠落している。そのため、最終的な作成年は不詳である。
作成者:忠導姓十二代の仲筋村杣山筆者の狩俣にや玄典(玄為)であると思われる。
資料の概要:表紙を含め25丁からなる勤書で、後半が欠落している。また、下部がすれて欠落しているところや虫食いがあり、ところどころ読めないところがある。
本勤書は、宮古島忠導氏狩俣首里大屋子玄縁(玄易)が多良間島詰役のときに生産した、十代狩俣筑登之親雲上玄次(玄陳)とその嫡子十一代狩俣にや玄次(玄往)の勤書を、十二代の狩俣にや玄典(玄為)が乾隆20(1755)年に受け継ぎ、乾隆38(1773)年以降も勤役を追加してしたものである。
表紙には、狩俣にや玄典とあるが、『忠導氏系図家譜支流』(冨盛家)には、玄為とある。同様に父の玄往と祖父の玄陳の名は玄次と記されており、後に祖父を玄陳、父を玄往と諡したのではないだろうか。
これとは別に、乾隆32(1767)年まで仕次された表紙に#3-8「忠導姓支流 宮古島仲筋村杣山筆者狩俣にや玄典 勤書」と書かれた17丁からなるものがある。